「すばらしき世界」が終わるとき

役所広司主演、西川美和監督作品というだけで、見応えありそうな映画「すばらしき世界」を見た。
(以下ネタバレを含みます)
癇癪が抑えられない人の脳に起きていること
脳が形成されていく子供時代に、親密な大人からの保護や愛情が十分にないと愛着不足の子供に育つと言われている。
保護されるどころか、ひどい扱いを受けた経験は、その子供の脳機能にもダメージを与えるらしい。
それは、感情のコントロールができず、癇癪を起こしたり暴力行為などの問題行動を引き起こす。
主人公の役所さん演じる三上も、子供時代にそういった経験をしてきたようだ。
加えて曲がったことが嫌いで、社会に迎合できない。
陰湿なイジメや卑怯なことに対して、暴力で押さえつけようとする。
その行為自体は、社会的に許容されないもので、世間様からは眉を顰められるものである。
そうやって、三上は社会からつまはじかれた存在となった。
社会適応するということ
事件を起こし、刑務所に収監された三上は13年後に出所した。
13年も経てば、社会は大きく変わっていて、刑務所にいたならなおさら仕事に就くことは難しい。
劣等感が強い人間によくあるように、生活保護を受ける自分自身を肯定できず仕事を探す。
たくさんの人に支えられて、ようやく見つかった仕事は、もう絶対に失いたくない。
支えてくれた人たちが、三上にアドバイスする。
人に合わせること、我慢すること、やり過ごすことを。
三上は、耐えた。
自身の正義感をねじ曲げても、愛想笑いし、媚び、見ないふりをした。
そうして、はじめてやり過ごすことができたのだ。
その夜、三上は死んだ。
精神の死とともに肉体も死んだ。心臓麻痺だった。
くらげのように生きる
哲学者ニーチェは、畜軍という付和雷同する大衆を軽蔑した比喩を用いた。
食べて・娯楽をし、快適さを追求し、安全パイをとってそうして長生きできるのが
凡人としての正解の生き方だ。
命を繋ぐこと、少しでも長く、平和に、安全に。
それが正解なのは、わかっている。
でも、それはすばらしき世界なのだろうか、とくらげのように生きる私は問いかけられた。
生きる意味を求めない
生きる意味をさがして、自分の使命を探すことに、今のわたしは懐疑的だ。
使命感というのは、関係性の中で現れるものだと思うのに、自意識過剰になっているだけの場合が多いからだ。
与えられた環境や関係性が、普通で平穏なのであれば、ふらふらと生きるのも宿命づけられているようにも思う。
自分は何をするために生まれてきたの?と宇宙と繋がったり、整体師に洗脳されたり、依存したりするのだけは避けたいものだ。
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